いせひかり伝説
 イセヒカリについてのホントの話 その1
「幻の米」とか「奇跡の米」とか言われて久しい「イセヒカリ」そんなに知りたいのなら教えてあげる
(知ってる範囲でね)トカゲがゴジラになっても困るし群盲象を触る状態でも困ります。
 誕生秘話って言われるほど秘密にされてないし、ウワサがウワサと呼んで尾びれ背びれがついて、北陸の某君なんかは、「伊勢湾台風」の時に・・・って、おいおい。コシヒカリが出来たのが昭和38年なのに、いくら何でもそんな昔からは、イセヒカリは無いぞ。
そりゃ、絶対栽培量が極めて少ないけれど、レアものコレクターグッズじゃないんだからネット通販で600円/kgは、ちょっとボッタくりじゃないんかい?最近では京都の一灯園でも扱っているし・・。

訂正とお詫び
文中で京都「一灯園」が「一桃園」になっておりましたことをこの場を借りて訂正と関係各位様にお詫び申し上げます。

 なんで平成の代になって、しかもお伊勢さんの神田で変異種が出たのか?自然が織りなす偶然の産物なのですがそれ以上に人智を超える力により何かの意思の基に降臨したような気がしてならないのは私だけでないはずです。天照大御神や瓊瓊杵尊の神話伝説が何故いまだに語り継がれているのでしょうか。単にいい品種ならミルキークインや過去のコシヒカリのようにどこかの農業試験場で出てもいいじゃないですか?
 イセヒカリの存在については、指導農業士の父が指導農業士稲作部会で伊勢神宮の「御神田」の奉仕作業に行ったときに当時の神田の作長の森氏よりその存在を知らされたのが最初でした。作長の森氏は普及員のOBで退官後に神田の作長になられたそうで稲作については当然プロ中のプロ。その当時はイセヒカリと言う名はなく「コシヒカリ晩」と言われていました。早期栽培の三重県では、作期の遅い中熟(なかて)や晩稲(おくて)系の品種は「ヤマヒカリ」や「黄金晴」「日本晴」等の「晴系」品種くらいでどれを取っても食味がイマイチ。変わったモン好きの指導農業士稲作部会の一味では、夏の神田の草刈りの奉仕作業に行くたびに「そんな遅くてええ品種があるなら作ってみたいもんや」で念願の「神田の純コシヒカリ晩」の種籾を有り難く頂戴仕(つかまつ)ったワケでした。本来門外不出(当時)の有り難い「御種籾」なのでそんなに沢山は頂けない。「で、誰が作るんや」って話になり後年の採種にウチにお鉢が回ってきたわけでした。平成7年の秋に神田よりの種籾を頂き栽培を始めたのが平成8年から。この年は採種の為の栽培。
 平成8年1月16日「御鎮座二千年」を記念し宮司さんが「イセヒカリ」と命名。なんとも良い名前がついたものだと知っているもの大喜び。やっぱコシヒカリ晩ではねぇ。でその年の奉仕作業でイセヒカリ誕生物語の記事の載った「神社新報」平成8年4月15日号「続・クヒモノジー」食と日本人16のコピーを頂きました。
以下囲みは神社新報平成8年4月15日号「続・クヒモノジー」食と日本人16 より。原文は古来の文字使いをしてありますが文字のみ現在のものに替えてあります。
イセヒカリ誕生物語
神宮神田で生まれた「理想の稲」

平成の御代替はりと時をあわせたかのやうに、神宮の神田で、飛び抜けて有望な稲の新品種が「コシヒカリの突然変異」で誕生した。味のよさで人気のササニシキやコシヒカリは、反面で背が高く、倒伏するのが最大の欠点とされる。  だが新品種は倒伏しにくいばかりか多収性、耐病性があり、味がコシヒカリ以上に抜群で、「理想的な品種」と農業の専門家をうならせる。 「御鎮座二千年」を迎へた神宮では一月中旬に少宮司が「イセヒカリ」と命名、この春から本格的な栽培が始まるといふ。神宮ばかりではない。本州の西の果て、山口県では各神社の神餅田や篤農家のあひだで、栽培が一気に広がる気配がある。なぜ伊勢であり、山口なのか。興味深いのは、新品種誕生と展開に人知を超えた意志が感じられることだ。
二度の台風襲来にもめげずに直立する「コシヒカリの変種」
 平成元年の秋、伊勢地方を台風が二度もおそった。被害を受けたのは神田も例外ではない。「西八号田」に植えられたコシヒカリは完全に倒伏した。神田事務所の森晋氏は「別名コケヒカリといふくらいで倒伏しやすいんですわ。多収を期待して窒素肥料を多くやるとますます倒れてしまふ。」倒伏すれば収量は減り品質は落ちる。  ところが、昭和六十一年からコシヒカリを連作してきた西八号田の中央に、二株並んで直立している稲があることを台風一過の朝、森氏が発見した。必ず一日に三回、圃場の見回りをする森氏が見逃すはずがなかったが、これが後に「いせひかり」と命名される「理想の品種」とは「予想もしなかった」  確かにコシヒカリよりも稈が太く短い。耐倒伏性があるのは、好ましい。しかし長年農業改良普及員を務めてきた森氏の経験では「藤坂五号のやうな多収でも味が劣る」稲に見えた。  成熟するにつれて見方は変わる。コシヒカリのくすんだ色とは違って「熟色がみごとな黄金色」なのである。「だいぶ違うな」と感じた森氏は試験栽培を試みる。コシヒカリの株から生まれ、収穫が一週間遅いため「コシヒカリ晩」と名付けられた稲がこうして日の目を見ることになる。  
 ここにあるように、作長の森氏が台風で倒伏したコシヒカリ栽培圃場で「異端株」を発見したのが平成に入ってからのこと、誰やぁ「伊勢湾台風でもこけなかった」って「話題を得るために」、さも知った風な口からでまかせをいうのは。書くからにはもっと調べてからにしなさいって。「ホンマ先に言うたモン勝ち」やな。ムチャなハナシでも。
 そりゃ森氏の言うようにイセヒカリの登熟の姿は綺麗です。稲作りのモンが惚れ惚れするくらい美しい。美しいっていうより「雅」(みやびやか)って感じです。「やんごとなく」かい?稲草や穂の色や姿。絶品です。確かに倒伏や病気に強さにおいても絶品、そのせいか稲草の手触りが確かにコシヒカリより堅い。どちらかと言えばしなやかさのない「バイバシ系」の藁。(あくまでコシヒカリとの相対比較ね)
 森氏が言うにはこの神田では以前より、他の圃場よりも高い頻度でちょいちょい変異種がでるそうなのです。まことに何か人智を超えた力がある田んぼなのかも。それで昔の人は「御神田」にしたのかもしれません。ホンマ神懸かり的?。私個人の考えですがそんなに変異が頻発するには何か物理的理由があるのでは?と思います。例えば「放射性鉱物」があったり、「磁気」なんかがあったりと言うような。まぁ、すっきり科学的に解明されないところにロマンがあっていいかも。 しかし、収穫期が遅いのは一週間どころではないっ。ウチの場合播種も遅いので楽勝に半月は遅い。これくらい遅いほうが仕事の段取り的には非常に助かります。
「理想的な新品種」であることを森氏が知るやうになるのは、もと山口県農業試験場長の岩瀬平氏との出会ひからである。 岩瀬氏は山口県庁に勤めて、農政畑を歩んだ。県農試を二年間、務めたのを最後に昭和五十四年、定年の退官。県神社庁町の佐伯虎之進氏とは営農技術研究所(現・県農菜大学)所長時代からの昵懇の仲。  定年後、「神社こそ伝統的な日本農業のあり方が受け継がれているのでは」と考へ、神社庁の講習で直階を取得。古典に精通する信仰の人でもある。  平成二年三月、岩瀬氏は神宮に詣でる。昭和天皇御崩御が、学徒出陣以来、生涯二度目の三詣を思ひ立たせたのだ。同じ日、生まれて初めて神田を訪れる。三重県の農業振興に尽力してきた森氏との会話ははづんだ。 参考品種田で栽培される中国黒米丹後古代赤米には興味を覚えた。帰りしな、黒米と赤米が分譲される。
反収「軽く十俵」 食味値「87」
判定に稲栽培の第一人者が結集
 平成の御代代はりの前後、神田では稲の新品種が立て続けに二回生まれている。 二度目はコシヒカリ晩だが、一度目は昭和六十二年、試験栽培中の丹後古代赤米に十株ほど点在するやうに出現した、熟成が一月早い短稈早生だ。  神宮参拝から帰宅した翌朝、山口市内の自宅でころび骨折で入院。見舞ひにきた試験場の後輩に森氏から分けてもらった赤米の種籾をあづける。森氏から短稈早生の出現をきいていたから、これが新種だと信じ込んでいたが、「秋になると短稈早生どころか倒伏した」と笑ふ。大嘗祭の翌年、神田の赤米で苦心して延喜式に基づく白酒・黒酒を醸造する。  その後、平成六年の夏、岩瀬氏はひょんなことから「神田のコシヒカリに変種が現れた」ことを知る。さっそく森氏に「分けて欲しい」と頼んでみたが、「神聖なお米ゆえにお断りせざるを得ない」といふ返事。
 ここにもあるように、フツーは本来は門外不出。入手する手段は、神社の「御神田」で作付けすることを絶対条件で、宮司さん同伴で伊勢神宮に種籾を頂きに上がるのが正規の入手方法。現在では京都の一灯園でも種籾を扱っているので入手できます。

ところが、秋になって、大きな段ボール箱が送られてきた。コシヒカリ晩の根付きの株六株と玄米で、手紙には、「評価をお願ひしたい」と記されてある。だがもともと行政畑の岩瀬氏に稲の判定はできない。  後輩の内田敏夫氏がやって来た。やはり元県農試の場長で、県内随一の稲専門家。 イセヒカリ物語には、奇しくも山口県の稲栽培の第一人者たちが結集しているらしい。  「この稲は見事に作られていますな」   神田で丹精込めて栽培されたコシヒカリ晩は、穂長が、第一節間長の半分に及ぶことに内田氏は感嘆の声を上げたという。「見事な稲を見せてもらって今日は気分がいい」 内田氏は詳しい調査のためにひと株のコシヒカリ晩を持ち帰った。  岩瀬氏は「突然変異かどうかは、断言できない」としたうえで、「籾の形がコシヒカリの親である農林一号に似て小粒で丸い。芒が紅色をおびていないのは一号と異なる。茎が太いのはコシヒカリではない。」したがって、「変種であることには間違いない」という  食味試験では、驚いたことに阿東町の県農試徳佐文場産コシヒカリ並の79が出た。 阿東町は島根県境にあり栽培条件が伊勢に似る。70以上が県の奨励品種で79は、かなりおいしい部類になる。「何度測り直しても食味計は同じ値を示した。」  一穂当たりの粒数や千粒重から反収と推算すると軽く十俵を越える。内田氏から検査結果を知らされた岩瀬氏が驚いたことは想像に難しくない。森氏は、「岩瀬さんの手紙を読んでびっくりした。」とくに食味の良さは。「神様にさしあげる米で食べることができない」から衝撃だったようだ。
 どこのメーカーの食味計かは知りませんが、メーカーによって同じ食味値でも全然違う。県の試験場は一般的に「ニレコ」製の機械を使っていますが、こいつが採点甘いんだわ。大甘で100点満点じゃなく「滋賀県産日本晴を100点とする」相対評価式の採点。以前三重県の試験場でウチのを測ったら最高得点110点台が出た。あのチヨニシキですら99点。それにこの機械の特徴は、「水分」が大きなファクターを占めるため、水分値が適正なら他の要素のアミロースやタンパクが多くても高得点が出ます。食味値は「点数」じゃなくて「アミロース値」と「タンパク値」それに水分値」を公開してもらったら大体の見当はつきます。だから食味値「90」って書いてあるのを食べてどえらい不味いコトもあります。水分が外れていずにニレコで80を切っていたらその米は美味しくなさそう。
農家が注目
平成7年岩瀬氏たちは実際に水田で耕作する。4人の篤農家が選ばれ、栽培が委託された。その一人長門市の宮本孟氏は長門一の宮・住吉神社(下関)の御田植祭の苗作りを三十数年にわたって奉仕してきた篤農家得体の知れないような稲だとしたら、わざわざ作ろうとするはずはないからやはり魅力的な稲株だったのだろう。植え付けてみて驚いた。「コシヒカリ晩といふから山口県でコシヒカリの次に収穫されるヤマホウシと同時期の稲と思っていたらヤマホウシどころか次のヤマヒカリよりも遅い。日本晴と同時期に収穫される中生(なかて)だった。水が落とされコシヒカリが収穫されたあとも、となりのコシヒカリ晩はまだ成熟しきっていない。水田では30センチもある稲が重く頭を垂れる。「栽培を全て間違った」のに一穂籾数は、125.100以下が普通というからすごい。反収に換算すれば籾で1トン。玄米で800kg実に13俵に相当する。「やりそこなひでも軽く10俵を記録した。絶対に倒れないから機械化に対応する。昨年はヤマホウシ、ヤマヒカリに稲熱病が発生したが、病気はなかった。耐病性もありさうだ。食味値では、最高で87を記録した。食味値の70と80は、人間では判別がつかない。食味は充分に保証出来る。しかも熟れ色がいい」四拍子そろった最高の新品種を、しかも篤農家が試験栽培する米を周りの農家が注目しないはずはない。「なんとかいひ逃れをいってこの冬を過ごした」といふ。
 山口県の岩瀬氏の手に渡り、山口で普及の兆しを見せ話題になりだしたこの頃より県(三重県の普及所や県試験場)とイセヒカリの確執が始まります。県としては「あんなモン新品種でも何でもない。以前作っていた「黄金晴」か何かがたまたま出てきただけや。」と完全否定。「品種の登録なんぞもってのほか」とけんもほろろ。まぁ県としては地元であるにもかかわらず自分らの所へ来るまでに山口県で調査や分析等が行われたことを快く思っていなかったわけ。続に「ハダシにされた」わけですから、気分が良くないのはごもっともっていえばそれまでだけど大人気(おとなげ)ないわなぁ。(大体県の方針が旧態然なこんなモンですから改革派の知事に変わったときに職員と軋轢があったのは全国的に有名な話)。作ってみるとやはり病気には強い。気(け)もない。県の言う黄金晴なら「あんなイモチに強い黄金晴があるかい」ってところ。稲の姿もちがうしね。収量はええ加減な私が作っても移植、直播問わず8俵を下回ったコトなし。もっと丁寧に極限まで肥おいて作れば10俵は軽く行くと思う。
一月中旬、少宮司が命名 
神田で本格栽培始まる。 「これほど有望な米が、いつまでも仮の名ではいけない。」岩瀬氏は、森氏や佐伯氏に熱っぽく訴へる。神宮に直接掛け合はうとした矢先の今年一月十六日、「イセヒカリ」の名が付いた。酒井逸雄少宮司は「聖寿無窮を祈念申し上げ、皇大神宮御鎮座二千年を記念して命名した」と語る。平成元年に生まれたイセヒカリは今年、表舞台に登場することになった。神宮神田二町九反のうち今年は水田三枚、計四五アールで本格栽培され、神宮祭から神前に供される。神田では今後イセヒカリを主体に栽培され、逆にコシヒカリは姿をけすさうだ。
 「恐ろしい稲」
イセヒカリの誕生は単に優良品種が生まれた以上の意味を持っているやうだ。岩瀬氏がいふ。「この稲は恐ろしい稲です”人を選ぶ米”だからです」。窒素を穂に蓄積するタイプで、出穂から登熟までの期間が十日ほど長い。二次枝梗籾数が多く、丹念に育てて稔らせれば、反収は伸びるが手抜きをすると青米が増えて逆に品質ががくんと落ち、反収1トンにはならない。「作りやすいと思ってカネ儲けでかかったらとんでもないシッペ返しを食らふ」。だからこそ岩瀬氏は「これからの米に求められる性質を全て備へた稲が。かふいう時代に神宮の神田で現れたことにただならぬものを感じている」。
 別に品種の登録とかそんなモンは作り手としては作付けに値する良い品種ならそんなことはどうでもいいわけで、全面否定する普及員さんなんかに、「あんたらの仕事は、農家のためになるいい品種を探して普及させるのが仕事やなかったんかい。そんな面子とかにこだわっておらんとええモンは「ええ」と評価できんのかい」とグチをこぼしたくもなります。
 大体窒素をため込むタイプは当然窒素を引きずるので食味は絶対伸びない。窒素がタンパクとなってこれが多いと雑味や舌に「ざらつき」感になってマイナス要素。そりゃ反当1トンも獲ろうと思えばかなりの窒素をブチ込まなくてはならないので稲の植物体がそれだけ食い切れる訳がない。すると実に窒素分が残り食味を下げます。美味しいお米を獲ろうと思えば多収とは両立しません。腹8分目以下でなければ良食味は期待出来ません。 
 日本に限って言えばお米は余っていると言われていますが、今後世界規模の人口増加や食糧危機を考えてとにかく増収、多収を目指すのか、収量をそこそこにして食味を上げるのか、では必然的に栽培方法が違うわけで1トンも獲って良食味なんてそんな調子のいいことの両立ははっきり言ってムリ。どういう意味合いでカネ儲けに向かないといっているのかは不明ですが、現在のネット通販(直販)でイセヒカリがキロ600円もしているようでは、今のところ「カネ儲けに向いている」んじゃないでしょうかねぇ。
つづく To Be Continue